慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ケ原の合戦により徳川家康の東軍にくわわっていた山内一豊は、先の大戦を勝利に導いた功績により土佐24万石を家康公より賜りました。
それまで土佐をおさめていたのが長宗我部氏。1568年に土佐中部を完全に平定していたので、山内家にかわるまで35年ほどしかおさめることができていないことになりますね。
山内神社

ここは、有名な長曾我部氏にかわり土佐24万石をおさめるまで出世をした山内一豊公を祭っている「山内神社」です。

司馬遼太郎著書の「功名が辻」では、仕官先をさがしてさまよう「伊右衛門=のちの山内一豊」からはじまる。そして、はじめての仕官先が「藤吉郎=後の豊臣秀吉」。そのころは「ボロボロ伊右衛門」とよばれ、うだつが上がらない武士でしたが、千代が伊右衛門に嫁いでからは、小さく地道な働きにより少しずつ出世していくというストーリーです。
写真をとったのは1月2日。元日につづき初詣客でごった返すであろう時期にもかかわらず山内神社はひっそりとしていました。

じつは、それには2つの理由があるのです。
1つ目の理由は「潮江神社」があるからです。「潮江神社」は、この地域の氏神様なのです。したがって、おおくの高知市に住むひとびとは山内神社にはいかず「潮江神社」にいくのです。
2つ目の理由は「山内一豊」に高知県民の人気がないということです。
わたしはおおくの高知県民とはなしましたが、幕末で坂本龍馬をはじめ、多くの幕末の志士を苦しめた山内家を潜在的に好きではないというひとが圧倒的なかんじがします。
坂本龍馬や中岡慎太郎のファンである方は「山内容堂公」といえばもっとも嫌いな幕末の人物にあげられることだと思います。

わたしも坂本龍馬ファンなので、その気持ちもわからないでもないです。
しかし、いまの高知の文化を築いたのは、土佐24万石の大名であったのは山内家であることに違いはないのです。
なので、わたしは「潮江神社」にも行き、「山内神社」へも行きます(笑)

当日は1月2日ということもあり、巫女による「浦安の舞」がありました。
「浦安の舞」というのは、祭典中に奉奏(ほうそう)する神楽舞(かぐらまい)のことですね。
お隣の「潮江神社」では屋台がたくさんでてにぎやかな雰囲気であるのに対し、「山内神社」では屋台は1つもなく、「浦安の舞」の見学者も10名ほど。
元旦の厳かな雰囲気をあじわうにはよいのではないでしょうか。

旧山内家(三翠園)の隣にあります

この「山内神社」は、旧山内家のとなりにあります。この旧山内家は今は「三翠園」という旅館になっています。
かつて山内家だったときの面影を残しているとても素敵な門構えです。
高知県民は、山内神社の存在を知らなくても「三翠園」という旅館の認知度はほぼ100%でしょう。
参拝者用の駐車場も無料で提供されています

高知市のおまちアーケードのすぐそばにありながらも、無料駐車場を備えています。
1月2日の初詣でもスムーズに駐車ができましたので、普段ならほぼ間違いなくこの駐車場を利用できると思います。
ぜひ高知らしさをつくった父である「山内一豊公」へのご挨拶もふくめて参拝されてみてはいかがでしょうか。
横浜市から高知市へ35歳で移住した田舎暮らしに憧れる編集長の小川みのる(@Twitter)です。1部上場企業を退職。家族の介護の為に高知へ。「よさこい、お酒に寛容な県民性、高知らしいレトロな建物」が大好き。サラリーマンをしながら日夜執筆活動をしています。次の世代へわたしの好きな「高知らしさ」をバトンタッチするためにウェブジャーナルを運営中。趣味でトレランをしています。