高知市中須賀町にとなる駄菓子屋がある。ほそい路地をすすんだところに木造平屋建て。いまでもお店をやっているのかと思うぐらい風情のある建物だ。
神奈川県から4年前に移住してからこの駄菓子屋のまえをよく通るが、一度もお店にお客さんがいるところを見たことがない。それどころかとびらが開いていることもみたことがない。
今回はその駄菓子屋へ突撃取材をしてみることにした。
創業60年の駄菓子屋「いかちゃんく」

このお店は住宅地にある。しかし、どの家も古い木造建築。じつは中須賀町は戦争中に空襲にあわなかった地域なのだ。むかしの農道がそのまま今のみちになっている。
しばらく中須賀町をあるいてみたが、ひともほとんど歩いていないような住宅地だ。
そんな中にひっそりとたたずんでいる「いかちゃんく」。たしかに電気がついている。ということは営業をしているのだろう。意を決してはお店にはいってみることにした。

とびらが開いた。ゆっくりとお店のなかに入ってみる。駄菓子が売っている。お店はやっているようで安心した。
挨拶でもしてみようかと「おはようございます!」と声をかけてみた。
テレビがチラっとみえる奥の部屋から「はーい」と、おばあちゃんが少しまがった腰をかばいながら出てきてくれた。
とてもひとのよさそうなおばあちゃんで、30歳過ぎの男がお店にひょっこりやってきてもにっこりと迎えてくれたのがうれしい。
さっそくお話をお聞きしてみることにした。

ちなみにお名前は「松村年子さん」という。
編集長「このお店は何時ぐらいからやっているんですか?」
松村さん「だいたい朝の7時30分頃にお店をあけていますよ」
編集長「えっ!7時30分ですか。早いんですね。」
松村さん「まあ、お店を開けていても子供はほとんど来ないですけどね。」

ふとおみせの奥にメニュー表があるのにきづいたのでさらに聞いてみた。
編集長「いまでも、お好み焼きは焼いているんですか?」
松村さん「もうやっていないです。むかしは子供たちに焼いていたんですが、もうとしだから鉄板焼きはやめました。」
編集長「そうなんですね。。近所のこどもたちにどれが人気ありました?」
松村さん「やはり、ひやしあめとお好み焼きですかね。けっこうたくさん作りましたよ。」
編集長「じつはわたし神奈川から家族で移住してきたんですよ。高知はいいところですよね。」
松村さん「そうですか。わざわざ遠いところから高知にありがとうございます。」
編集長「4歳のこどもがいますので、また今度こどもをつれて駄菓子買いにきますね。」
松村さん「ぜひおまちしています。」

松村さんといろいろお話しながら、息子に駄菓子をお土産に買っていこうと店内を見渡した。
お店は2坪ぐらいで広いとはいえない。きっとこどもたちも訪れなくなりアイスの販売もやめているのだろう。空の冷凍ショーケースがなんだかさみしい。
駄菓子は小学校低学年のこどもでも安心してかえるよう、だいたい10円~50円ぐらいの価格帯のものがほとんど。

むかしなつかしい飛行機のおもちゃや紙風船などもうっていた。
ちなみになぜこの駄菓子屋が「いかちゃんく」と呼ばれているのかだが、鉄板でお好み焼きを焼いている当時、お好み焼きにイカだけが入っていたため、近所のこどもたちから「いかちゃんく」と呼ばれるようになったそうだ。
ちなみに「いかちゃんく」の「く」とは、土佐弁で「家」という意味だ。要するに「いかちゃんの家」ということ。
そんな「いかちゃんく」では、おでんも作っていた。めずらしいのがおでんにハケでお好み焼きソースをぬるとのこと。近所のこどもたちにとってはそれが普通のこと。
おばあちゃんだけがいる駄菓子屋
今回は「いかちゃんく」で松村さんに取材をした。
駄菓子屋は60年という年月をかけ、とても魅力的な風情となっていた。
きっと昔は多くのこどもたちでにぎわっていたことだろう。しかし、いまはほとんどの時間が松村さんだけなのだ。こどもたちのいない駄菓子屋。いつでもこどもたちを温かくむかえる松村さん。
きっと全国的にもこのような駄菓子屋がおおいと思う。しかし、多くのひとがこの駄菓子屋で松村さんのつくったお好み焼きやひやしあめを食べた思い出があるだろう。
もしこの駄菓子屋がなくなれば、多くのひとの思い出の場所がまたひとつなくなってしまう。
松村さんはそんな「高知らしさ」をひとりで守ってくれているのだ。
横浜市から高知市へ35歳で移住した田舎暮らしに憧れる編集長の小川みのる(@Twitter)です。1部上場企業を退職。家族の介護の為に高知へ。「よさこい、お酒に寛容な県民性、高知らしいレトロな建物」が大好き。サラリーマンをしながら日夜執筆活動をしています。次の世代へわたしの好きな「高知らしさ」をバトンタッチするためにウェブジャーナルを運営中。趣味でトレランをしています。