編集長「小川みのる」のプロフィール

みなさんこんにちは。ローカルウェブメディア『高知。おまちRASHISA』の編集長をしている小川です。

簡単ですが、ここではわたしが歩んできた39年間を簡単に紹介をさせてもらいます。

編集長の生い立ち

1979年生まれ。血液型はA型。3人兄弟の末っ子。東京23区の世田谷が生まれ故郷。

小さい頃はひたすらスポーツに打ち込む。水泳、サッカー、野球、空手、バスケ、マラソン(笑)。

とにかく、いろんな習い事をさせてもらえた両親に感謝ですね
(o^∇^o)ノ

少年時代の編集長

中学生のとき、都大会で好成績をおさめ全国大会へ

とにかくスポーツが大好き!時間がある限り色々な習い事をさせてもらいましたね。写真の『日の丸』の左にいる飛び出たのがわたしです。空手は兄が習い始めたのをきっかけにはじめました。

とても面白かったので頑張って「初段」になりました。

少年野球チームでは副キャプテン。高校3年までつづけていました。

少年野球もやらせてもらいました。この頃の将来の夢は「プロ野球選手」でした。

サッカーも幼稚園から中学3年生までつづけていました。

サッカーも始めました。幼稚園の時に水泳を始めたので「サッカー、野球、空手、水泳」4種目となります。

私は一度習い事をはじめると長続きするほうだったので、しばらく続けました。

中学は陸上部に所属し中距離の専門へ

中学になると「陸上」をはじめました。中学ではバスケもやっていたので、これで「野球、サッカー、空手、バスケ、陸上」の5種目となります。

中学の時は塾にも通っていたので、とにかく忙しかったですが毎日がとても楽しかったです。

甲子園をめざした高校球児

高校は公式野球部に入りました。入学した高校も甲子園に出場できる可能性があるところを選びました。

甲子園に出場し、プロ野球のスカウトから指名されると信じていました。しかし、ここから私の苦悩の日々が始まるのです。

入部した野球部の部員は100名以上。年間わずかしかない休みの中、自主練も含めほとんど野球漬けの毎日でした。「きっとこの苦しみを乗り越えればレギュラーになり甲子園に出れる!」と信じて。

しかし、入部して半年ほどしたある日、自主トレ中に「疲労骨折」をしてしまいました。明らかなオーバーワークです。

そのころの私は「練習すればするほど良い」と思っていました。

同級がどんどん上手になる中、自分は雑用と病院通いの日々。そして、晴れて「疲労骨折」が完治したと思いきや、ふたたび疲労骨折になってしまいました。

前回より練習量を抑えたにも関わらずケガをしてしまったのです。この時高校2年。幼少からの夢だった「プロ野球選手」が遠のいていくのがわかり、正直かなり落ち込みました。

2度目の疲労骨折が完治し練習に復帰した時には、すでに5番手のキャッチャーでした。甲子園に行ってもアルプススタンドですね。ブルペンにも入れません。

しかし、夏の甲子園予選まであと1年ありましたから、なんとか頑張ってレギュラーを目指したわけです。当然オーバーワークしないように注意しながら自主練もしました。

そして、またもや「悪夢」が襲いました。なんと「椎間板ヘルニア」になってしまったのです。

医者からは「手術しても完治はしない」通告され目の前が真っ暗になりました。これまで何をしてもそこそこの成績を残すことができた自分にとって初めての「挫折」でした。

椎間板ヘルニアも克服し大好きなスポーツを再開

高校3年でヘルニアになり野球部を退部しました。小学3年からつづけていた野球だったので、いざその野球をやめることになると、この先なにも目標にすればいいかすぐには見つけられない状況でした。

しかし、昔から好奇心が旺盛だったので、野球以外にやってみたいことはありました。

野球部をやめてからは、治療に専念したおかげで「椎間板ヘルニア」もよくなり、またスポーツをはじめることができるようになったのです。

空手やバスケ、居合道、フットサル、草野球などなど、またスポーツをはじめてみました。

その後、駒澤大学にすすみ『硬式テニス』もはじめました。

プロ野球選手の夢をあきらめた次の夢

ある時、ネットサーフィンをしていたところ、海外で働く日本人の記事を見かけました。アメリカで働く20代の男性でした。今でもよく覚えていますが、その働いている男性がとてもキラキラしていました。

「これだ!」と思いました。「海外渡航×海外就職×海外生活」にとてもワクワクしました。まだ、スポーツ以外に1つ『柱』になるものを身につけたかったというのが本音です。

そこから、英語の勉強、渡航費を稼ぐためのアルバイト生活が始まりました。

渡米資金の為に3つのアルバイトをかけもちしました。16時~21時までお寿司屋でバイト。22時から6時まで駐車場でのバイト。仮眠して学校へ。それ以外にも短期の仕事をこなしながら月給30万円を稼いだときもありました。

あまりの過酷な生活が続き、髪の毛の一部が禿げてしまいまいた(笑)。今でも残ってますよ。

いざアメリカへ(海外生活編)

いよいよ夢にまでみた海外生活がスタート!とてもわくわくして渡米をしました。私が住んでいたのはワシントンDCです。

公立小学校での研修生として勤務

簡単に言うと、研修生として無給で働かせてもらいました。いきなりお金をもらうのは非現実的ですね。

「EWS」という学校なのですが、幼稚園~小学校までの幼小一貫校です。日本では珍しいですよね。私はそんな一貫校で色々やらせてもらいました。

小学3年生のフランス語が母国語のクラス
研修生として担当したこと
・体育の授業のアシスタント
・アフタースクールのアシスタント
 ※両親が迎えにくるまでの様々なプログラム。学童みたいなものですね。
・屋外学習のアシスタント
 ※子供が迷子にならないように監視する役。
・テコンドークラスのアシスタント
・給食の準備
・掃除や教職員の事務サポート
・日本文化の授業
・アジア文化の授業
 ※中国人の先生と一緒に授業を行いました。

住居は黒人居住地区

住居は校長先生が月200ドルで地下室を貸してくれました。あまりお金がなかったので仕方がないですね。

住んでいたところは黒人居住地域でした。校長先生も黒人。校長先生の姪っ子も黒人。まあ贅沢は言えないですね。毎日ドキドキしながら学校まで自転車で通勤していました。

教員で一番仲がよかった『ボビーさん』

アメリカで働いて人生が変わった3つの出来事

①プライベートを充実させるために必死に働く
とにかく職員の皆さんは、退社時間になったらすぐに帰ります。その時の退社時間は15時だったのですが、30分も経過したらアフタースクールの先生以外はほとんど帰宅。その帰り方がとても気持ちがいい。ダラダラせず自宅へ一直線です。

そのかわり、勤務中の集中力は半端ないですよ。昼休みでも食事後は授業の準備や事務作業をしていました。

教職員の方々は自宅でも授業の準備をされているとお聞きしました。とにかく残業はせずに家に帰り、子供を迎えにいき夕食を食べ、また仕事をするという感じです。

アメリカでは『仕事にドライ』と聞きますが、じつはとっても責任感があり、上司の評価を気にし、家でも仕事をしているのです。とっても意外でした。

②男性の家事・育児ぶりが半端ない!
アメリカの男性の家事育児に関する考え方が半端ないと思いました。私が知らないだけかもしれませんが、職員同士で仕事後に飲みに行った方はひとりもいません。

私の歓送迎会もありませんでした(笑)。ちなみに男性職員のみなさんは自宅に帰り何をしているのか、ほぼ全員に聞きました。

男性が帰宅後にしている5つのこと
  • こどもと遊ぶ
  • こどもの宿題のてつだい
  • こどもを寝かしつける
  • 家族でテレビをみる(最低でも30分以上)
  • イベントの準備(ハロウィーン等)

きほん『夫婦共働き』なので、男性は『子供』、女性は『家事』みたいに分担している家庭が多かったように思えます。

③ハングリーさが半端ない!

ペルー人の教職員。南米のひとはめっちゃフレンドリー♬

アメリカでは男性も女性も等しくハングリーな方が多いです。

それは、『よい企業に勤めないと生活ができない』からです。日本と違い、アメリカでは『当日解雇』がありうる国なのです。

もし解雇されてしまえば、保険からも外れてしまい、病気になった時などは高額な医療費を全額自己負担しなければならないのです。

したがって、日本以上に『上司』からの評価を気にし、必死に仕事をしている印象がありました。

『生きていくために仕事をする』という必死さを目の当たりにできたことはまだ日本で働いていない私にとっては貴重な経験となりました。

日本に帰国!いよいよ日本企業に就職

帰国後はスポーツクラブに就職をしました。とにかく最初に勤める会社は最低でも10年頑張ろうと考えていました。

勤務地も全国を転々としながら8年目で一部上場企業の課長代理までになりました。

しかし、店舗運営というのは非常に苦労が多い職場です。社員が少なく、アルバイトばかりの人員構成。しかも女性比率が8割。帰宅は深夜になることもしばいば。

休みの休館日にも研修やら会議の予定が入ってくる始末。第一子を設けたばかりの妻を育児で助けてあげらなかったのがとても心残りです。

盲腸をこじらせて緊急手術

仕事がとてつもなく忙しい中、1ヵ月近く腹痛が続いていました。病院に行っても「膀胱炎」との診断。薬を飲んでも改善せず。ある夜、熱が39℃を超え腹部の激痛もおさまらず、妻に話し自転車で総合病院へ行きました。

診断結果は「虫垂炎からの腹膜炎併発」。すぐに緊急手術することになってしまいました。執刀してくれた先生からは「もしかしたら人工肛門になるかも」と聞いていました。

しかし、腹膜炎の具合も恐れていたよりも軽く、1ヵ月安静にしていれば完治するとのことでした。

それにしても、医者からは「よくこの状態で自転車で来たね!」と驚かれました。腸の中から内容物が外に飛び出し炎症を起こしていたのです。

こんなにお腹を切ることになるとは。。。

手術は成功。術後も良好で、幸運にも後遺症もなく1か月で社会復帰することができました。

1部上場企業の課長代理を退職決意!

支配人になれば年収700万円以上になると聞いていました。あと数年間この会社で頑張れば『支配人』になれる可能性が高かったのです。

しかし、高知県には妻の義母が義祖母をひとりで介護していました。義母もフルタイムで仕事をしながらだったので、相当大変な状況だったのを覚えています。

義祖母も要介護4とほぼ全介護の状態。義母も精神的・肉体的に厳しい状況でした。私の両親は父母ともに健在で元気に過ごしております。私が3兄弟の末っ子ということもあり、義母の介護を助けられるのは娘である妻と私なのだろうと思いました。

とても忙しい会社でしたが、それはそれでとても充実していましたので、退職を決意するにはとても勇気が必要でした。

しかし、介護の壮絶さを垣間見たわたしとしては、義母をほっとけないと感じ、妻にはなし家族で高知へ移住することにしました。

いよいよ高知へ移住

人生初の田舎暮らし

生まれも育ちも東京23区だった為、田舎にものすごく憧れていました。私の妻の出身が高知県だったので、25歳の時から退職まで5回ぐらい高知へ行きました。

初めて高知に行った時のことは今でもよく覚えています。東京23区育ちとしてはものすごーく感動しました。一番感動したのは、初めて妻の実家に挨拶しにいったとき、16時ころ家に到着したのですが、家に入るなり3分後には酒宴。そして、30分後には手に蕁麻疹が!お酒は自分では強いと思っていたのですが、高知のいごっそうにたった30分でつぶされてしまったのです。

神奈川にいる時は、お酒が強い人が少なく、しかも、お酒好きも少なかったので、とても不満でした。同僚の男性が1杯目からウーロン茶、カルピスサワーでしたから。なので、お酒が飲めないと大変な高知県と言われますが、私にとっても「最高!!」と思っていました。

ということで、妻に相談し、退職を機に妻の実家の高知県へ移住することになりました。当然、妻の実家にお世話になります。マスオさんです(笑)。

高知県の地元企業へ就職

前職のスポーツクラブに続き、食品問屋の営業マンになりました。この会社では高知県のことを色々勉強させてもらいました。

とくに高知県の特産品を取り扱いしていたので、高知県中の美味しいものをたくさん食べ、いろんな生産者と仲良くなることができました。

「高知県で一番美味しい〇〇は!?」と聞いていただければ、ほぼお答えできるでしょう(笑)。

高知をもっと知ってほしい!

食品問屋で働き、高知県の食品産業にさまざまな課題や問題があることに気づきました。

とくに深刻だったのが『跡継ぎ問題』。

高知には美味しい農作物を育てている達人とよばれる農家さんがたくさんいます。しかし、その農地を継いで農業を続けるひとがいないという農家さんが実にたくさんいらっしゃいました。

これはただの『人口減少』という問題ではなく、若者が『就きたい職業』が変わってきているのだと感じました。

そこで、高知にかかわるひとを増やしたいという思いから、さまざまな活動をしてきましたが、そのなかで一番チカラを入れているのが、「高知と高知県外のひとを結ぶローカルウェブメディア」です。

簡単に『移住者歓迎』と募集したところで、そう簡単には高知県へ移住してくれません。そして、移住者を受け入れてくれる市町村の体制も整っていません。

したがって、県外で働く高知県民や高知に旅行に来て気にってくださっている方々にむけて『高知の今』の情報を伝えたいということで、「高知。おまちRASHISA」を立ち上げることにしました。

まだはじめて2年目になりますが、1日でもはやく高知県と県外のひとびとを結びつけることができるウェブメディアへと成長させていきたいと考えています。